WOrks

2022

 

モチーフと私の関係について

このような作品を制作している1つ目の理由は、私たちはこのキャラクターたちと同じような存在なのではないかということを私自身が感じているということ。2つ目の理由はデジタル概念に身体的な要素を取り入れたいという思いからである。

私の描くキャラクターはどれもゲームに登場するエキストラ的なものをイメージしている。モチーフは唯一無二の特徴を持って描かれる主要なキャラクターではなく、どこにでもいそうな、大した特徴もない所謂モブキャラである。彼らはどういった存在なのか考えてみよう。ロールプレイングゲーム(RPG)と呼ばれるジャンルをプレイした経験がある方ならピンとくることと思うが、こういったモブキャラは例えばAという街では「エマ」という名前で登場したかと思うと、同時にBという村では「アン」という名前でしれっと生活をしていたりするのがこの手のゲームにおいてはお約束。同じ見た目のキャラクターを全く違う人物として、ゲーム内で何度も使い回しているというわけだ。彼らは何者でもなれる一方で、誰でもない存在として、言い換えるならそのゲーム世界を構成するための「環境」として描かれている。そんな彼らを見つめて思う。現代に生きる私たちも彼らと同じような存在ではないだろうか、と。

ワタシハ / I am.

ワタシハ(pigtails)

530 x 530mm         Mixed media on wood panel

ワタシハ(red dress)

530 x 530mm         Mixed media on wood panel

ワタシハ(on the grass)

530 x 530mm         Mixed media on wood panel

ワタシハ(china dress)

530 x 530mm         Mixed media on wood panel

ワタシハ(dance)

530 x 530mm         Mixed media on wood panel

ワタシハ(warrior)

530 x 530mm         Mixed media on wood panel

ワタシハ(relation)

652 x 652mm         Mixed media on wood panel

ワタシハ(nurse & dance)

530 x 530mm         Mixed media on wood panel

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ワタシハ(flowers for you)

470 x 470mm         Mixed media on wood panel

そもそも絶対的な「自分」は存在しない

現代というのは圧倒的な情報の波に全てが押し流されていくような感覚さえあるが、その中で個人はアイデンティティを確立することが非常に難しくなったと言えると思う。本当の自分は一体どこにあるのかと「自分探し」をしたくなってしまうような時代だ。しかしそこに疑問を投げかけたい。そもそも「自分」というモノなど存在するのだろうか?と。自分は存在するんだと思い込んでいるだけで、本当はそんなもの存在しないのではないだろうか。

例えば、人間の内臓にはいろいろな細菌がいて、そいつらが私たちの体の中でいろんな役割を担っていたりする。そういう細菌がいないと私たちは生きていくことができない。そう考えると、その細菌は自分自身の一部だと言えるのではないだろうか。いやいや私は私、細菌は細菌。と分けて考える方法は、観念的であり、主観的に物事を見ることに終始する。そのような考え方に支配されている限りはどこにも有りはしない確固たる自分を生涯かけて探し続けることになるのではないだろうか。

自分が自分である範囲

もう少し話を続けたい。自分の体は自分が食べたものでできているが、では自分とその食べ物とを分ける境界線はどこにあるのだろう。やはり自分は自分であり、食べ物は食べ物であるのだろうか。また、髪の毛は抜ける前は自分自身で、抜けたらただのゴミであり、だから髪の毛は抜けた瞬間自分とは一才関係のないものになるということなのだろうか。しかしこのような理屈が通じるなら、それこそ私たちはロボットやプラモデルと同じである。脳(精神)だけは自分、あとは全部自分に付随するもの、もしくは他者という認識であり、端的にいうとデカルト的であるが、しかしこの考え方が現代社会の主流となっているのは間違いない。

 

そうではなくて、私たちは観念的な存在としてではなく、実在として世界と繋がっているのが本質だろう。実在ベースで見れば、本来自分と自分の生きる世界に境界線を作ることなどできるはずがない。先のように食べ物は、髪の毛は、と自分の拡大を続けていくと、それまで自分と自分ではないと思われていた世界の境界線がどんどん曖昧になり、やがて全部が溶け合ってしまうことになる。そうして自分とそれ以外の世界を分けるような線など本来は引くことなどできないということを知る。それは自分という枠組みなど本来存在しないと知ることと同義である。

全部が自分であって、それ故に何物も自分ではない。「自分」という鋳型などないのだ。言い換えれば、自分という存在は固定的な「もの」としての存在ではなく、「こと」という状態としての、流動体のような存在なのではないだろうか。

EXHIBITION

2022   3331 ART FAIR

TOKYO

2022 “Intermission”

GINZA TSUTAYA, TOKYO

2022 “Seminari”

Meistay, TAIPEI

2022 AFAF

FUKUOKA, JAPAN

2022 ”8-bit Journey”

NEPTUNE GALLERY, Taipei

2022 ”8-bit Journey”

NEPTUNE GALLERY, Taipei

2022 ”Style Wars”

(KATSUMI YAMATO GALLERY)